大禹陵
- 2018.11.17 Saturday
- 21:39
大禹陵
伝説上、中国史上発の王朝とされる夏(BC2070?~1670)の創始者<禹・う>の御陵。
後ろの山=会稽山全体が御陵であり、紹興郊外にあります。
禹祠堂
中国神話では盤古が天地開闢するのですが、
BC7000年頃、黄河流域には粟・麦の、長江には稲作文明が発生。
BC4~5000年には、中華文明の創始者とされる三皇五帝が登場。
三皇=人頭蛇身の伏儀・女禍が人類を誕生させ、神農が医・農業を起こし、
そしてBC3000年頃、華夏(中国の古称)に、
漢族の祖とされる、五王=炎・黄・僥・舜・禹らの部族王が登場。
禹の父は黄帝の孫とされ、
僥王より、氾濫を繰り返す黄河の治水を命じられるも失敗。
後を継いだ禹は、13年の歳月をかけて成功。なので大禹と称されることに。
大禹像
大禹は中原一帯を9ケの州に分け(現在の揚州・徐州など)
夏の配下の証として、それぞれ鼎の鋳造を命じることで部族を束ね、
九鼎は王権と国家統一の象徴となるのです。
また彼は、軍隊を強固にし、法律を整備し、
更には夏暦(農暦)も制定。つまり以降の中華帝国の基礎を築いたわけですね〜
そして。
大禹はその強大な権力を息子の啓に譲り、啓は天子を名乗り、正式に夏王朝が樹立するのです。
しかし。それまで王位は禅譲制。
僥は舜に、舜は禹に王位を譲るという、徳のある者が王位を継いでいたのが、
夏以降は世襲制となり、中国封建制度の礎ともなります。
しかし。
夏は14代400年続くも滅亡し、いよいよ殷王朝の登場となります。
さて。
春秋時代、禹の末裔である越の都が会稽(現・紹興)に置かれると、
始皇帝は会稽に禹を祀り、960年には宋の太宗が、禹の祭祀を国家行事として定め、
以降は清の乾隆帝まで、皇帝の重要な祭祀となります。
→この祭祀を10年前に復活し、紹興市が主宰する南鎮祭禹として盛大に執行しているそうな〜〜
ところで。
夏(BC2070~1600)も殷(BC1600~1050)も、司馬遷<史記>に記載はあるものの、
両方とも伝説とされていましたが、殷墟の発掘や甲骨文字上に殷の記載があることにより、
殷は実在が確証されました。
夏は、2002年二頭里遺跡(河南省)で大型の宮殿遺跡が発見され、
発掘物には、精巧な玉器・漆器・陶器、なにより青銅器が多々あり、
ほぼ夏王朝とされるも、甲骨文字のような記録がなく、断定はできない状況なのです。
しかし。中国の歴史長すぎ! 覚えるのが大変やん・・・
孫悟空の如意棒は、定海神針という名称で、禹が黄河の治水の折に使用したもの。
禹の象形文字は、蛇→龍を表現しており、黄河治水は、龍が禹に助力したそうな。
それには龍門開鑿の伝説が〜〜
龍関山を穿つとそこには人頭蛇身の伏義・女禍が。禹が両神を敬いつつ助けを求めると、
定海神針を授けられ、それにより天地の測量ができ、治水を果たしたのです。
両神は、人類を作った神。
当初は、真面目に黄土をこねて人間を作るも、その重労働に嫌になり手抜きしすることに。
泥のついた紐を黄河に垂らし、引き上げた時の泥雫で造人するようになったとか。
なので真面目に造人したのは金持ちに、手抜きしたのは貧乏人になったとか・・・
→→ 私はやっぱり手抜きされたんやなあ〜・笑
でもね、神様でも手抜きするこの神話が、中国人らしくて大好き。
さて。
人頭蛇身とは龍の表現しており、龍とは雨神・水神の象徴。
道教では禹は水言大帝とされ、禹はつまりは黄河の水神であり、
黄河の神格化でもあり、そして禹は龍の末裔。
なので、禹は漢族の祖でもあるので、中国人は龍の末裔・・・だそうな。
今回の同行者。彼らは会稽山に登ったけれど、私はヘタレなので当然登らず、
麓でアイスを食べながら、ぼっ〜〜〜としておりました。
→ぼっつつつと生きてんじゃね〜〜よ ⇦チコちゃん
今、NHKチコちゃんにハマり中。
大禹陵売店のお姉さん。実は地元テレビにも登場した有名人。
明るく朗らかな女性で、彼女の作った麺、美味かった!