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    祇園祭/保昌山

    • 2018.08.08 Wednesday
    • 08:33

     

    こんなに暑いのに、昨日は暦の上では立秋

    中国というか上海では、立秋にはスイカを食べる! ということでたらふく食いましたよ。

    スイカ、ほんまい美味いよな。

     

    本題。

    2017年前祭山鉾巡行第20番保昌山

    →→山鉾紹介、最初は巡行順に紹介してたけど、

      いつの間にか私の気分次第となってまった ←岐阜弁のつもり。

      朝ドラ半分青いに感化されとる。

      半青、話が変や変や〜と思いつつクセで見とるで〜〜

     

    ご神体平井保昌は、大江山の鬼退治をした源頼光に仕えた四天王の一人。

    その上和歌にも堪能で、文部両道の平安イケメン。

     

     

    保昌山は、東洞院松原通上る燈籠町にあるのですが、山鉾の賑わいから外れた場所。

    でも 昭和30年まで鉾巡行の中心であったのです。

    というのも現在の巡行コースは、四条・烏丸から河原町通を北上し御池通を西進。

    しかし以前は、四条・烏丸から寺町通を南下し、松原通を西進していたのです。

    でも、松原、寺町通があまりに狭く、

    事故・危険回避に、昭和31年より現在のコースとなったわけ。

    そして以前の巡行時、松原中之町において、

    長刀鉾稚児が太平の舞を披露後、山鉾一連が休憩したのですが、

    その行事の一部が現在も続いており、

    松原中之町御供・古式一里塚松飾りとして7月14日に行われます。

     

    京都観光情報より、お写真拝借しました。

     

    しかし、なぜ松原中之町でそんな行事がされているのか?

    それは、ここに八坂神社頓宮があるから。

    都に疫病が流行した江戸期、各町ではこぞって八坂神社を勧進し、素戔嗚尊をお祀りするも、

    その先駆けは松原中之町だったのですね。現在は町会所の奥庭に小祠があります。

    また、松原通は氏子の境界線。通りの北側は八坂神社、南側は伏見稲荷の管轄なので、

    神社側としても、重要な町でした。

     

    中之町御供・古式一里塚松飾りは、

    社前に松を立て、車海老などを供える古来の素朴な御供え形式。

    運営は、町衆の松中会がしています。

    7月 14日午後、八坂神社宮司・長刀鉾稚児・禿・長刀鉾役員が参拝し、

    松中会側は(巡行時にお茶振舞いをしたことにより)氷水で点てた薄茶でもてなします。

    * 祇園祭期間中、稚児は生神さんなので地上に足をつけないのが掟。

      でも現在、中之町御供は神社の公式行事ではないため、稚児は地上を歩くのですよ〜

     

    殆ど知られていない行事だけれど、→って、私も知らんかった・・・

    でもこんな意味深い行事がひっそりと続けられているのが、京都ですね〜〜

     

     

    ご神体の鎧は、明智光秀の甥が着用していたものと伝来。

     

     

    さて。平安イケメンの平井(藤原)保昌くん。

    なんと御所勤めの才媛、三十六歌仙の一人である和泉式部女史に恋しちゃうのです。

    でもね、式部は藤原道長から浮かれ女、と揶揄されたほどの恋多き女。

    2子を得た夫と死別後の大恋愛の相手は、冷泉帝第3皇子と第4皇子の兄弟。

    まして小恋愛は両手に余るほどに。

    そんな式部なので「紫宸殿に咲いている梅が欲しい」などと、純情保昌くんにイケズを言う。

    年増熟女の手練手管に、純情保昌はイチコロ。

    保昌くん、紫宸殿に忍び込んで梅を盗んでしまうのですよね。惚れたら負けやもんなあ〜

    結果、式部は妻となったので、目出度しなのだけれど・・・

     

    なので、ご神体は梅を手折って持ち去る場面。

    だから保昌山は、明治までは花盗人山と呼ばれてました。

     

    そんな謂れにより、授与されるお守りは縁結びと盗難除け。

    縁結びは納得やけれど、梅花を盗んだのに盗難除けって・・・ま、いいか・・・

     

             前懸・胴懸の下絵は円山応挙<巨霊人虎図>

     

    円山応挙(1733~1795)は、近世絵画の巨匠。

    京都に暮らした関係で、記録に残るだけで6ケの山鉾町から下絵の依頼を受けている。

    その中で原寸大の下絵が現存しているのが保昌山。

     

                   見送=<福禄寿星図>

     

    見送りの図案は中国風ですが、綴織は日本製(1798年作)

    それまで懸装品は輸入していました。

    祇園祭は疫病消除を願う祭で、山鉾巡行は、神輿が通る道を祓い清めるため。

    その山鉾を、欧州・インド・中国製の絢爛豪華な懸装品で飾り、

    疫神を引き寄せ、封じ込めようとしたのです。

    でも17世紀頃の日本では刺繍・綴織技術は拙く、

    鎖国の時代のも関わらず、輸入に頼らざるを得なかった。

    しかし、この頃から自作に挑戦始めるのです。

     

    保昌山は、1963年最も早く舁山に車輪を付けました。

    担ぎ手不足でアルバイトを雇ったのだけれど、

    担ぎ慣れていない彼らの力不足を補うためだったとか。

     

     

                   舞妓はんが〜〜

     

    彼女たちは各鉾町の役長に、お神酒をお渡しする役目なのですね。

     

    八坂神社の門前町で、参拝客の接待をしていた女性が、舞妓・芸妓の始まりなので、

    彼女たちも、祇園祭には縁が深いのです。

     

                   

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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