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- 2021.10.18 Monday
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こんなに暑いのに、昨日は暦の上では立秋。
中国というか上海では、立秋にはスイカを食べる! ということでたらふく食いましたよ。
スイカ、ほんまい美味いよな。
本題。
2017年前祭山鉾巡行第20番保昌山。
→→山鉾紹介、最初は巡行順に紹介してたけど、
いつの間にか私の気分次第となってまった ←岐阜弁のつもり。
朝ドラ半分青いに感化されとる。
半青、話が変や変や〜と思いつつクセで見とるで〜〜
ご神体平井保昌は、大江山の鬼退治をした源頼光に仕えた四天王の一人。
その上和歌にも堪能で、文部両道の平安イケメン。
保昌山は、東洞院松原通上る燈籠町にあるのですが、山鉾の賑わいから外れた場所。
でも 昭和30年まで鉾巡行の中心であったのです。
というのも現在の巡行コースは、四条・烏丸から河原町通を北上し御池通を西進。
しかし以前は、四条・烏丸から寺町通を南下し、松原通を西進していたのです。
でも、松原、寺町通があまりに狭く、
事故・危険回避に、昭和31年より現在のコースとなったわけ。
そして以前の巡行時、松原中之町において、
長刀鉾稚児が太平の舞を披露後、山鉾一連が休憩したのですが、
その行事の一部が現在も続いており、
松原中之町御供・古式一里塚松飾りとして7月14日に行われます。
京都観光情報より、お写真拝借しました。
しかし、なぜ松原中之町でそんな行事がされているのか?
それは、ここに八坂神社頓宮があるから。
都に疫病が流行した江戸期、各町ではこぞって八坂神社を勧進し、素戔嗚尊をお祀りするも、
その先駆けは松原中之町だったのですね。現在は町会所の奥庭に小祠があります。
また、松原通は氏子の境界線。通りの北側は八坂神社、南側は伏見稲荷の管轄なので、
神社側としても、重要な町でした。
中之町御供・古式一里塚松飾りは、
社前に松を立て、車海老などを供える古来の素朴な御供え形式。
運営は、町衆の松中会がしています。
7月 14日午後、八坂神社宮司・長刀鉾稚児・禿・長刀鉾役員が参拝し、
松中会側は(巡行時にお茶振舞いをしたことにより)氷水で点てた薄茶でもてなします。
* 祇園祭期間中、稚児は生神さんなので地上に足をつけないのが掟。
でも現在、中之町御供は神社の公式行事ではないため、稚児は地上を歩くのですよ〜
殆ど知られていない行事だけれど、→って、私も知らんかった・・・
でもこんな意味深い行事がひっそりと続けられているのが、京都ですね〜〜
ご神体の鎧は、明智光秀の甥が着用していたものと伝来。
さて。平安イケメンの平井(藤原)保昌くん。
なんと御所勤めの才媛、三十六歌仙の一人である和泉式部女史に恋しちゃうのです。
でもね、式部は藤原道長から浮かれ女、と揶揄されたほどの恋多き女。
2子を得た夫と死別後の大恋愛の相手は、冷泉帝第3皇子と第4皇子の兄弟。
まして小恋愛は両手に余るほどに。
そんな式部なので「紫宸殿に咲いている梅が欲しい」などと、純情保昌くんにイケズを言う。
年増熟女の手練手管に、純情保昌はイチコロ。
保昌くん、紫宸殿に忍び込んで梅を盗んでしまうのですよね。惚れたら負けやもんなあ〜
結果、式部は妻となったので、目出度しなのだけれど・・・
なので、ご神体は梅を手折って持ち去る場面。
だから保昌山は、明治までは花盗人山と呼ばれてました。
そんな謂れにより、授与されるお守りは縁結びと盗難除け。
縁結びは納得やけれど、梅花を盗んだのに盗難除けって・・・ま、いいか・・・
前懸・胴懸の下絵は円山応挙<巨霊人虎図>
円山応挙(1733~1795)は、近世絵画の巨匠。
京都に暮らした関係で、記録に残るだけで6ケの山鉾町から下絵の依頼を受けている。
その中で原寸大の下絵が現存しているのが保昌山。
見送=<福禄寿星図>
見送りの図案は中国風ですが、綴織は日本製(1798年作)
それまで懸装品は輸入していました。
祇園祭は疫病消除を願う祭で、山鉾巡行は、神輿が通る道を祓い清めるため。
その山鉾を、欧州・インド・中国製の絢爛豪華な懸装品で飾り、
疫神を引き寄せ、封じ込めようとしたのです。
でも17世紀頃の日本では刺繍・綴織技術は拙く、
鎖国の時代のも関わらず、輸入に頼らざるを得なかった。
しかし、この頃から自作に挑戦始めるのです。
保昌山は、1963年最も早く舁山に車輪を付けました。
担ぎ手不足でアルバイトを雇ったのだけれど、
担ぎ慣れていない彼らの力不足を補うためだったとか。
舞妓はんが〜〜
彼女たちは各鉾町の役長に、お神酒をお渡しする役目なのですね。
八坂神社の門前町で、参拝客の接待をしていた女性が、舞妓・芸妓の始まりなので、
彼女たちも、祇園祭には縁が深いのです。