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    祇園祭/前祭・鶏鉾

    • 2018.07.02 Monday
    • 09:29

    祇園祭の季節がやってきました。 

    今年の長刀鉾稚児は、同志社小3年の小林勇太郎君。楽しみですねえ〜〜

     

    しかし!

    去年の祇園祭前祭見物に際して、このブログ上で各山鉾をそれぞれ紹介するゾ・・・

    と大それた宣言をしても〜〜たものの、いつもの如く中途半端で、

    いつの間にか立ち消えになってしまっていて・・・今頃続きをするのでございますどす。

    ちなみに、去年紹介した山鉾は、

    長刀・函谷・綾傘・四条綾傘の4鉾。占出・孟宗・伯牙・霰天神山の4山。

     

    ということで。

    去年からの続きの始め(って変な言い方やけど・笑)は、鶏鉾。

    さて。

    羯鼓(カッコ)をバチで打つ、鶏鉾の稚児人形のお名前は何でしょう?

                  

             天水引=<瑞雲・日輪と麒麟図>

     

    正解はかりまへんのどす。すんまへん。

    →って、私の記憶力が弱いせいではなく、このお人形さん、ほんまに名前が付いていないのです。

    他の4体の稚児人形には、立派な名前ががあるのに・・・

    何で命名していないのか、それも不明。

    ま、何となく名付けしないまま、今に至ってしまったのでしょうね〜。

     

    *羯鼓は、唐より伝来した宮廷用の鼓。曲のリズム・テンポを統括するので、楽長の役目。

    鶏鉾以外、長刀鉾の生き稚児も他の稚児人形も、羯鼓を下げています。

     

    鉾の高さ=24m、重さ 7t(巡行時 9.4t) 天王人形は住吉明神

     

    こんな鉾を曳いてみたい・・・女性やけれど、やはり思ってしまう。

    そんな願いは、12日の鉾引き始めで叶えられます。女性・子供、町外者でも、この日は無礼講。

    鶏町には池坊短大があるので、ここの女子大生も毎年参加するとか。

    なお、鉾の曳き手がかぶっている日笠は、鳥のトサカにちなんで赤。

     

     

    蟇股には、鶏鉾にちなんで雌雄の鶏の彫刻。

    さて鶏鉾の由来ですが、それは羯鼓に関係あり。

    稚児人形は羯鼓を打っているけれど、諌鼓(かんこ)は訴訟用の太鼓。

          →→ちょっと、ややこしおすなあ〜〜

    中国古代は堯の皇帝。不満がある者は諌鼓を叩くように〜との法律を設けるも、

    こんな皇帝が治る世ゆえに天下泰平。

    諌鼓は全く鳴らず平和のあまり、諌鼓に鶏が巣造りした、という逸話がテーマ。

    鶏鉾は、つまり平和を願う鉾なんですね。

     

         下水引=松村呉春画<唐宮廷楼閣人物図>

     

    また、前懸は17世紀前半ペルシャ絨毯、胴懸は草花模様インド絨毯。

    懸装(けそう)品は、世界との交流をうかがわせます。

     

     

    鶏鉾では統一感を持たせるために、囃子方・車方・屋根方の面々は全て鉢巻を締めてます。

    これって決まり事、と思っていたら、他の鉾では意外とバラバラなんですよね〜〜

     

     

       見送=<トロイ王子ベクトルと妻子の別れ> 重文

     

    鶏鉾の至宝。ホメロスの叙事詩イリアスより、トロイ戦争の一場面を描いています。

    16世紀ベルギーで製作され、鶏鉾町が購入したのは1815年と由来も明確。

    (一説には、伊達政宗によるローマ派遣により、支倉常長が持ち帰ったとも)

    このタペストリーは5枚あり、1枚は徳川家光が所有するも消失。2枚めは加賀に現存。

    残りの3枚がこの鶏鉾、霰天神山の前懸と長浜曳山祭の鳳凰山の見送りとして使用。

    それにしても。

    こんな名品を買える財力が、鶏鉾のみならず四条の鉾町にはあったのですね〜

     

    現在、前祭の山鉾巡行は7月17日に山鉾23基、

    24日の後祭は、山鉾10基が巡行しています。

    でも、昭和41年から平成23年までは、全山鉾が17日のみで巡行していました。

    しかし、昭和40年までは前・後に分けて、2回巡行がされていたのです。

    ・・・私が幼い頃は、17日だけの全巡行を見ていて、

    あまりに長時間で、ぐったりしてましたねえ〜

     

    平安初期に祇園御霊会が始まり、中期には前・後祭の形が出来上がっていたよう。

    ただし神輿渡御が中心で、鉾巡行が登場するのは南北朝時代。

    神輿と共に、馬に懸物を付ける=馬上12鉾で巡行。

    室町期には風流(ふりゅう)が好まれ、財力を持った町衆により、

    60基もの山鉾が豪華に飾り付けられていき、

    応仁の乱以降1500年頃には、

    現在と同数の35基(鷹山・布袋山は休み山)が固定化されます。

     

    祇園祭の本筋は、神輿迎と神輿送り。巡行はあくまでその露払い。

    なので巡行は、前祭と後祭の2回に分けなければ意味をなさない。

    しかし。

    交通規制や商売上の理由で、同一日の巡行にしたのです。

    ところがそれは、巡行時間の異常な長さを招き、

    一日ゆえに宵山は混雑の極みとなり、お祭風情が消滅。

    そういうこともあり、2回巡行の復活となったのです。

     

    ところで、明治以前は旧暦での巡行。

    つまり現在の7月17日は、当時の6月初旬で入梅前のまだ涼しい時期。

    巡行時期を、旧暦に戻してほしい!で〜〜す・笑

     

     

     

     

     

     

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